昭和49年10月04日 朝の御理解



 御理解 第3節
 「天地金乃神と申す事は、天地の間に氏子おっておかげを知らず、神仏の宮寺氏子の家屋敷みな神の地所、そのわけ知らず方角日柄ばかり見て無礼いたし、前々の巡り合わせで難を受けおる。この度生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁盛致す事、氏子ありての神神ありての氏子、上下立つ様に致す。」

 私はまあ一日の内で一番有難いというか嬉しいというか、私が四時の御祈念をさしてもろうて、四時半に大体下がります。下がらせて頂くもうその瞬間から感じるのですけれど、もう側におられる人達が、思われるだろうと思うんですけど、どれだけ生神金光大神様、天地金乃神様、有難う御座いますを繰り返すか分かりません。四時半に下がりますと、すぐお風呂を頂きます。久富先生が、一緒に入って背中を流してもらいます。そうすると、夕食の準備が出来ております。
 家内と久富先生と三人でお食事を致します。もうそのとにかく美味しいこと美味しいこと。何を頂いても美味しゅうて美味しゅうてこたえん。もうそれこそ、生神金光大神様天地金乃神様、有難う御座います。有難う御座いますと、もう心に思うだけではない。思わず知らず言葉になって出て来る。それから夜の御祈念。それから休ませて頂く。まあいうならば、私が四時半に下がらせて頂いて、休ませて頂くまで、私の極楽の最高潮という感じが致します。本当にそうなんです。
 朝三時十五分に目覚しのおかげを頂きます。三時半にここに出てまいります。その時の私の気持ちというのは、これから愈々神様が助かって下さる事の為の御用。所謂合楽示限活動。最近はそういう言葉まで申しとりますね。合楽示限活動という事は、言うならば神も助かり氏子も立ち行く。世界を示し現わして行くと言う事なのです。ですから朝の私の出から、又はそれからずっと、四時半までの御用を思いますと、それはもう何というでしょうか。張り切った弓糸の様な物を感じます。
 さこれからは神様が助かって頂く御用をさせて頂くのだと。神様が助かって下さる事の為の御用を今からさせて頂くのだ。お許しを頂くのだという気持ちでです。四時半の御用を終わらせて頂いて、下がらせて頂くその瞬間から私は極楽を感じます。それはもう本当に心の底から有難いというか、嬉しいというかもうお風呂の中などでは、もう久富先生と二人ですから、湯壷の中に入ってからでもそうですし、背中を流して貰い貰いでもそうですけれども、生神金光大神様天地金乃神様有難うございます。
 もうこれの繰り返しで御座います。もうそれも実感なんです。ただ口癖に金光様金光様というのじゃないです。本当に有難いです。そしてそれを私が思わして頂いたのに、ああこれが本当の素晴らしい極楽だと云う事であります。それは休ませて頂く大体時間まで、寝に付くまで、生神金光大神様天地金乃神様、有難う御座いますが、続きます。そしてその極楽のまま寝に付かせて頂いて、朝三時十五分に目覚しのおかげを頂いて起きる、その瞬間からです。さあさあ今からとこんな気持ちです。
 例えば、仕事でも一服してからやる時には、アーア又仕事ばせんならんと、言った様な事ではいけませんよね。ああ皆ぐうぐう寝とる時に、俺だけが起きてから、今から又仕事ばせんならん。御用せんならんというのでは、いけませんよね。本当に私はですね、朝起きて、洗顔させて頂いたら、サァという気持ちです。さぁ今からやるぞと。今からやらせて頂くぞと。どういう事をやらして頂くかというと、神様が助かって頂く事のための御用をさして頂くぞというものの、その張り切った気持ちです。
 だから私はその間、三時半から四時までの御神前に出らして頂くまでが、私の一日の最高に有難い時だと云う事を、皆さんに聞いて頂きます。私はこの御理解第三節というのは、そう云う事ができ、そう云う事が分からせて頂く事のための御理解だと思うですね。天地金乃神と申す事は、天地の間に氏子おって、おかげを知らず。成程信心の薄かった時、信心が無かった時にはです。私は無かった時と云う事がありませんです。もう母の胎内からの信心ですから。けど信心はしておってもです。
 神様のおかげを、それ程しに感じ切らなかった。おかげをおかげと感じ切らなかった。天地金乃神様の御恩恵、お恵みと言う物が分かれば分かる程、いわば有難いと言う物ですから、ここにあります様に「神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所、そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼いたし」と言う様な言葉で表現しておられます。神様に対する御無礼の思い方と云う物が、さらさら無く成って来た。皆さん迷信をいう事はね。もう天地の神様に対する大変な御無礼ですよ。
 今日は何の日だから良いの悪いのというたら、家を建てるのに方角が良いの悪いの。日柄を言うと云う様な事は、もう天地に対する最高の御無礼です。信心なしよるばってん昔から言うちゃる事は、守らにゃいけんなんて言う様な金光様の信者が、まだ幾らもおりますけれども、もう是は金光様の信心とはいえませんです。迷信を言う様な事ではお道の信心は迷信打破の信心だと、言われておりますがもう日柄方角を見た。
 今日は何の日てんなんてんと言う様な事が、まあだ浮かぶ間はね、金光様の御信心者とはいえません。言うなら天地の御恩恵と云う事。天地金の神様と申す事はと言う事を知らない時です。これは大変御無礼で、その事が前々の巡りで難を受けおると、仰せられる程ですから、難儀の元というのは、天地に対する御粗末御無礼です。もうこの辺りの所をすっきり、金光様の御信心をさして頂くならば、天地の大恩恵、天地の大恩徳と言う事が分からせて頂ければ頂く程です。
 思い違い考え違いも無くなって参りますし、今までの思い違い考え違い。自分の物でもない物を自分の物の様に思うたり、天地に対する所の言うならば降る照るの事に対してでも、不平不足を言うたり又は愚にも付かない所の迷信を言うて、何の日が良いの悪いのと。例えば結婚式の黄道吉日などと言った様な言葉を使うと言う事すらがおかしいです。何時もが黄道吉日なのです。さあ葬式をするといえばさあ友引には葬式を出してはいけんてんなんてんという考え方はもう天地に対する最大の御無礼です。
 皆さんそれを良く分からないと。私が申しておりました様にです。本当の意味においての、私が一日の御用を終わって、四時半に下がらして頂く。その瞬間から、生神金光大神様天地金乃神様、有難う御座いますを繰り返し繰り返し思うだけではない。言葉に出して言わねばおれない程しの有難いものを感じる。そういう私は極楽の世界に住む事は出来ないです。本当の意味において。
 天地金乃神様の御恩徳。御恩恵を分からせて頂けれは頂く程、もう私の周囲には天地の親神様の、言うなら恩徳の現われと云う物ばっかりなのです。その御恩徳の中に浸らせて頂くのですから、思わず知らず、生神金光大神様天地金乃神様、有難う御座いますが出るのが当り前です。少々の心配があったり、痛い痒いがあってもです。もうその有難う御座いますが、強いから、消えて無くなるのです。そういう極楽のおかげを頂いておるから、その極楽のおかげを頂いておる神恩報謝の為にです。
 その神様の御恩徳にお応えするその心がです。やむにやまれんものになって、朝三時十五分の目覚ましともなるわけです。そしてこれからはです。朝私が出て来る時のその心意気とでも申しましょうか。もうそれこそ弓張りといいますね。もうそれこそ表現のし様がない程しにです。さあさあという心です。さあ今から神様が助かって下さる。これから神様が、本当に喜んで下さる事の為の御用をさして頂くぞというです。皆さんでも朝参りの時に、ああ又参らにゃならん。
 眠かばってんと言う様な事では、本当の事ではならないです。それこそ今いうさあ今から朝参りぞと。親先生の御祈念には、間に合わなくてもです。せめて五時の御祈念には、間に合わなければと。それで皆さん熱心な方達がちょっとでも時間に遅れるとバタバタ走って見えよりますね。あの勢いがいるんです。自転車から降りたら自転車から降りたら、やっぱり走り込んで来る様な勢いが要るんです。
 もう五分十分遅れたっちゃ当り前のごたる思いで、朝参りしたっちゃ、もう朝参りは半減です。朝参りの本当の有難さはです。あの親先生の御祈念の拍手から、そして一心不乱の、言うならば祝詞奏上から御祈念。そしてお話を頂き終わるまでは、それこそ皆さんの心の張り弓の様にあってはなければならんのに、御祈念中にぐうぐういびきをかきよる人があるくらいです。是ではね私は本当の事じゃない。
 いやそれはね結局天地金乃神と申す事はという。その事が分かっていないからであります。なら私自身も初めからそうではなかった。信心は頂いとりましても、それこそ生れながらにして信心は頂いておりますけれどもです。天地の御恩恵、御恩徳を聞いてはおったけれども、実感としてそれを感じる事が出来なかった。出来なかったから神恩報謝の心も、勿論分からなかった。それが段々分からせて頂いて、実感として。
 なら私の今日の四時半から、晩寝まして頂く、その間の極楽の状態というものをです。そりゃ本当に極楽なんです。思うて適わない事がないのです。四時半から先の言うなら、私の私生活とでも申しましょうか。あれが飲みたいと言えばそれがあり、あれが食べたいと言えばそれがあり、ああして貰いたいと思えばそれをちゃんとしてもらえれる人があるし、もうそれは本当に極楽です。是が本当の極楽だと私は何時も思います。
 ですから思わず知らず、生神金光大神様天地金乃神様、有り難う御座いますが口を付いて出て来るのです。これは横で聞きよったらおかしいくらいにあるかもしれませんけれども、実際はそうではない。私の有り難い有り難いと言うておる間に、やっぱり皆もそれに巻き込まれておる様な感じです。それはどう云う事かを天地金乃神様と言う事が、分からしてもろうてです。お心が分からせて頂いてです。
 勿論迷信的な事やら、自分の物でもない物を自分の物であると言った様な言うならば我でいう、思う事が無くなって来るという生活。そこからです。有難い言うならば極楽の世界に住まわせて頂き、その極楽の世界に住まわせて頂いておる事がです。おかげを受けておると云う事がです。御礼ともなり、奉仕ともなり、いわば神様が助かって下さる事の為に、所謂神恩報謝の心を持ってです。神様が助かって下さる事の為に、本気でそこに命を掛けられるのです。
 これは私が三時半にここに出てきて、そして四時半に下がるまではこの思いです。それがどう言う事になって参りますというと、一番最後の所にね「末々まで繁盛いたす事。氏子ありての神、神ありての氏子上下立つように致す」上下立って行く様なおかげの中に、言うならば神様が助かって下さる事の為に、精進さして貰う。それを今合楽では合楽示現活動と申しております。そういう神様の働きにです参画させて貰う。
 合楽示現と言う事は。言うなら合楽と云う事は、極楽のもう一つ向こう。私が言うならば例えば、午後を極楽に行っておる。その極楽の有難さがです。それをどうかして現わさなければおられない。神様が喜んで下さるのに、現わさなければおられないのが、そのまま、その思いが朝になって来る。そこから合楽示現活動に参画さして頂くわけなんです。合楽示現と言う事は言うなら、極楽のもう一つ向こう。言うなら神も助かり、氏子も立ち行くという世界。
 自分だけが極楽に行っとけば良いと言うのではなくて、この有難い心を神様の御助かり下さる。神様がお喜び下さる事の為に、奉仕をさして頂こうというのが、合楽示現であります。示現とは神仏が不思議な働きを示し現わす事だと。そういう素晴らしい働きに参画さして貰う。そういう素晴らしい働きに預らせて頂くというのが、参画という意味ですそこに、私は初めて合楽示現活動と言う事の、どんなに大切な事か。素晴らしい事か。その為には、先ずは私共が極楽に行かなければならん。
 極楽を味あわして貰わなければならない。思わず知らず神様有難う御座いますが、口を付いて出る程しのおかげを日々受けなければならん。その為にはです天地の御恩徳を知らなければならん。天地の御恩恵の中にある事を実感しなければいけない。冷たいお水の中に手を差し込む。ああ冷たいなら冷たいけど実感する様に、神様のお恵みの中に手を突っ込んでおる様な、言うなら実感が有難い勿体ないと言う事になるのです。
 その有難い勿体ないが、一切の人間の不幸せ、不幸難儀と言う物から、離脱する事が出来るのです。「真に有難いと思う心が、すぐにみかげのはじめ」ですから、どうでも真に有難いという心を開かなきゃいけんのです。そこで今まで知らなかった、天地の大恩。天地の御恩徳。御恩恵を分からしてもろうてです。ああ今までは本当にあいすまん事であった。神様の御恩徳を知らん。
 天地の御恩徳を知らん事とはいいながらです。それをいかにも当り前の事のように思うたり、自分の物でもない物を自分の物と言う様な思い方をしておった事に対する御粗末御無礼を、心の底からお詫びの心になって出世来るわけです。お詫びの印に信心さしてもらうのです。お詫びの印に修行させてもろうたと言った様なおかげが頂けれる。そのお詫びが許される、そのお詫びが聞き届けられる。そこにあるのは極楽の世界である。言うならば、御粗末御無礼の許された世界。
 そこが私は、極楽の世界であると思う。しかも金光教の信心は、極楽の世界に行けばもうそれで良い。病気が治ればそれで良かというのではなくて、自分の願いが適うたからそれで良かというのではなくて、その有難い勿体ないが。今度は神様が助かって下さる事の為に、神様がお喜び頂ける事のために奉仕する。それを神恩報謝の心をもって、合楽示現活動に参画さして頂くと言った様な事になるのです。今日は御理解三節を私の一日極楽と合楽を、今日は聞いて頂きました。
 そういう世界に皆さんも愈々住ませて頂くと言う事が、願いでなからなければいけません。昨日日田の綾部さんがお参りになってから、月例祭の私の御祈念の時に、はっきりお声で『神願成就が、示現活動』という事を頂かれた。すぐ側に喜朗さんの奥さんがおられたから「今だれかテープか何かを後ろで掛けよんなさるとですか」と言うて、振り向いたら、そんな私の御祈念中ですから、テープなんかが掛かっておるはずはありません。あら今んたぁ、神様から頂いたっちゃろうというて、昨日お届けなさいました。
 「神願成就が示現活動」普通で、これ言うならば示現活動が、そのまま神願成就というふうにいうのが普通でしょうね。けれどもこれは人間からいう示現活動じゃない。神様から言われる所の、これは諺と昨日綾部さんに聞いて頂いた事でした。神様の願いが成就すると言う事はです。神様が一生懸命に、一番祈り願っておって下さる事はです。神の願が成就すると言う事はです。本当の意味において、人間氏子が真実助かると言う事なんです。それが神様の願いなんです。
 私共が真実助かった時に、天地金乃神様も又安心して下さり喜んで下さり、いわば助かって下さる時なんです。所謂示現活動と言う事。私共が助かると言う事がです。神様の御言葉をもってするとです。神願が成就した時だと言う事になるのです。その様にいわば今の合楽示現活動という事は、大変な意味を、内容として持っておると言う事と同時にです。私共も又です。
 神様が氏子が助かってくれる事を願っておられる様に、私共も又天地金乃神様が助かって下さる事を願う。此処ん所が、金光教だけしか説き得ない所だとも思いますね。人間と神様とが、一緒に助かり会うて行こうというのです。それを合楽という。神も助かり氏子も立ち行く。天と地が一つになって喜びあうと言う事。そこに鶴亀の舞い遊ぶ様なおかげとも、私は頂いとります。そういう世界を顕現して行く。そういう世界をです目指して頂くというのが、合楽示現活動であります。
   どうぞ。